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原発再稼働反対!監視テント

 

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原発再稼働反対監視テントの今までのたたかいを振り返る④ 

原発再稼働反対監視テントの今までのたたかい④


ある監視テント参加者の感想 (2012年6月時点)


脱・反原発運動の発展には、「脱原発」の一点で統一した広範な運動の形成が今こそ求められています。昨年9・19(2011年)明治公園での6万人集会、復興ムードと対峙するフクシマ-全国での攻防、経産省前テントひろばを接点とした自由闊達な運動、各電力会社前の行動、官邸前行動、原発現地での行動などあらゆる広範な共同闘争の形成にとってすべてが重要なたたかいです。今、心あるすべての人々がフクシマを自己の問題として捉えるべきなのです。


「脱原発に右も左もない、脱原発で一致するなら誰とでも共にたたかう」というのは正しい論理です。しかし他方で、「脱原発」と言う中にもいかがわしい、怪しい論理が蔓延しはじめていることに留意しなくてはなりません。「脱原発のため」とオールウエルカムの姿勢をとることは基本的には正しくても、「トロイの木馬」の容認です。それぞれの運動の根っこを見極め、共にスクラムを組むか否かを判断することと、徹底して広範な運動を作ることとは、対立するものではなく両立することを確認しなければなりません。


 現実には、全く新たな創造的運動への試みが様々に生まれています。他方でトンデモな「脱原発運動」や、脱原発運動と語っていても「運動の目的は本当は何?」と聞きたくなるような運動も数多く生まれています。個人や団体の知名度を上げるため? 次の選挙での票がほしいの?「脱原発」というブームのアクセサリーがほしいの? 金がほしいだけ? ボス交の権利や利権が欲しいの?‥脱原発の真の目的を見失いかねない<ポピュリズム>的手法の運動が生まれているのです。


 小林よしのり(漫画家)の「脱原発論」、西尾幹二の脱原発運動への賛同や「平和主義ではない『脱原発』」など、いかがわしい論理が巷にあふれ始めています。彼等は「脱原発」を言いながら、日本の「核武装は当然」と主張しているのです。しかし、上記のトンデモ「脱原発運動」では、この本質的論理矛盾も「問題なし」なのです。


「原発と放射能は生命と健康と自然を破壊する。人類とは共存できない」これは誰もが否定できない正論です。
 しかしこの間、DPI女性障害者ネットワーク(http://dpiwomen.blogspot.jp/)の設立初期のメンバー、堤愛子さんが1980年代後期に書かれた文章(反原発三部作)の「あたり前」はあたり前か?─「障害者」が生まれるから「原発に反対」は悪質なスリカエ論法だ ! !―(http://www.geocities.jp/aichan822/atarimaehaatarimaeka.htm)には、今現在の多くの脱原発運動には決定的な落とし穴があるということを教えてくれています。
 
 古くは古代ギリシャのスパルタでの兵士養成、近代ではナチスドイツの自然と健康。ナチスには選民思想と優生思想の鼓吹と、その裏での障害者、ロマ、ユダヤ人等を抹殺する機構=ガス室があったことを忘れてはいけないのです。


 日本の原発=「原子力の平和利用」は日本の潜在的核武装の隠された目的としてあるのです。福島原発でのいまだ止まらない放射能の拡散は自然現象ではありません。原発と原発事故の原因=犯人を明らかにする。その責任の追及をしない脱・反原発運動は、本来の目的である「脱原発社会を実現する」ことを放棄した「トンデモ運動」になりかねないのです。ナチス的思想に絡めとられかねない危険性を孕んだ「運動」と指摘しなくてはなりません。
「そんな深刻なこと言うなよ!本当は自分がかわいいだけだ。それで運動して悪いか?」ここには他者への共感や連帯はありません。そんなあさましいだけの脱原発運動の利用主義を乗り越え連帯する運動こそが本当に広範な脱・反原発運動の発展を実現する近道ではないのだろうか?
 
 さらに言わずもなのことを言わなければならない。「集会やデモ・パレードで、周辺住民や街の人々が迷惑に思うようなことはやめよう」と言うようなことを運動に参加しつつ発言する人達が以前から散見されています。
今回も現地OCCUPY行動に参加しつつこのように発言する方は、巨大な原子力発電の再稼動で「第2のフクシマ」が目の前に迫り、死の恐怖で悲鳴にも似た声を上げざる得ない方たちの思いを共有する意思があるのだろうか?と。今、国家・電力会社・資本とそれに連なる利権亡者たちの原発再稼動を目前にして「死への行進」に悲鳴を上げることは、この悲鳴が日常生活を送っている多くの皆さんに届くことを願っているのです。女性が防犯ブザーを鳴らしたのに周辺の方に全くわからない音量や音質では、助かりません。全く効果はないのです。
 屋外での集会やデモは、通常の日常生活では感じられないある種の違和感を街の中に作り出さざるを得ないのです。そもそもOCCUPY行動そのものが、当然にも所有者や管理者・周辺住民にとっては大きな迷惑行為なのです。真の意味での連帯とは、現在の為政者に都合よく形成された社会常識やマナーと対立する側面もあることを、確認するべきではないでしょうか?
 巨大な権力の大虐殺暴力が行使されようとしている時、反対する直接行動にはなにが必要か?なにを議論するべきなのか?
                                     以上



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